真の国際交流と外国語

 ロシア語通訳者だった米原万里さんの著書『魔女の1ダース』を読んでいる。

 読めば読むほど、この人こそ本当の国際人だったと思う。

 以前にも、日本での市民の間の国際交流のあり方に対する歯がゆい思いを書いたが、なぜ私がそう感じるのか、彼女の文章を読んでよくわかった。

  どの言語においても、他言語に訳される情報は、その言語によって担われている情報の数百分の、いや数千分の一にも満たない。つまり、ひとつの言語を知るか知らないかによって、その人の情報地図は全く異なる様相を呈するのである。

    そのうえ、どの言語も、その言語特有の発想法とか、世界観を内包しているものだ。

  このことを、もし、国際交流会の人たちが理解していたのなら、真に外国人との交流をしたいと望むなら、英語以外の外国語をひとつ勉強するべきである。

 しかし、現実は、この本にも、指摘されたが、「国際語」がわかれば、それでよいと考えるひとが多い。たとえば、英語を母国語としている国の人たちは、あえて、外国語を学ばないか、学んだとしても、同格の「国際語」(フランス語など)を学ぶ。

  ところが、英語、フランス語のような「国際語」では、地球上の多様な文明を反映するものになっていない。つまり、異なる発想や常識を理解する想像力を貧しくしているのだという。

  日本に来る外国人のために、日本語講座を設けたりするわりに、果たして、日本人は、相手のことを理解するためには、彼らの言語を学ぶのが一番の早道だとわかっているのだろうかと。

  「身振り手振りでも、通じるものさ」とか、「交流なのだから、いろいろな楽しいイベントをするほうが受けるさ」とか、とにかく、日本人側の自己満足的な交流を本心から有難いと感じる外国人は何人いるのだろうか。

  言葉も通じない人に、本音はいわないものだ。私は、少なくとも、日本にいる中国人たちの声を聞いたりすると、「わかってないのは、日本人だけ」といったようなことをよく耳にする。「ほんとにしてほしい国際交流ってなんなのか」ひとつでも、彼らの言語を学んで、聞いて見たらいいのに、と思うのだ。

  

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中国語でうたう「ふるさと」

 李広宏という人が、日本の名曲「ふるさと」の歌詞を中国語に訳したのを、見た。

 なかなかよく考えられている訳だと思う。ただ、文字どおりを適当に直訳したのではなく、文字数をあわせたり、韻をふんだりして、いろいろと工夫されている。

 もちろん、中国語の歌詞だけしか知らない場合は、そのふるさとの風景は、やはりどこか中国の田舎の山河を連想させるのではないかと思うが、もとの古い時代のふるさとや、その時代の人のふるさとへの思いまで、要求するのは難しいと思うので、私はこれでいいと思う。

 文学やこうした歌詞の場合、もとの作品の精神や心がどれだけ反映されているかが、大切であると思う。大学時代、英文科の翻訳学の授業で、日本もかつて明治時代外国文学を訳して、日本に紹介したころ、かなり「意訳」をしていたという事例をとりあげていた。私たちは、大事なのは、「意訳」がいけないのではなく、どれだけもとの作品のいわんとしていることが伝わるかだと教わった。もとの英文を自分で訳しながら、翻訳者たちの訳と比較すると、たしかにただ忠実に直訳するよりは、よほどその翻訳者たちの訳のほうが、心情が伝わることがわかった。

 翻訳というのは、いろんなジャンルでそれぞれに適した訳しかたがあるのだと思う。

李広宏HP:http://www.li-koko.com

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孫悟空兄弟

 「福建で孫悟空兄弟合葬神墓を発見」という記事を読んだ。もう、ご存知の方もいるだろうが、なかなか興味深い内容である。

 よく知られている「孫悟空」は、「斉天大聖」といわれる。神墓の石碑には、もう一つの名「通天大聖」というのが、刻まれてあったという。「通天大聖」は、元末明初の蒙古族劇作家楊景賢が、その戯曲「西遊記」の中で描いた登場人物とのこと。実際のところ、私はその戯曲も知らないので、なんともいえないが、孫悟空にまつわる話なので、とても興味深かった。

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