風邪ひいて
先週から風邪をひいて、やっとよくなってきたところだ。
風邪をひいてから、少し症状が軽くなってきた先週水曜日、「気功」の教室にでた。
しかし、深呼吸ができない、むりにやろうとしても、咳がでてきたりして、結局は、普通の呼吸でやっただけとなった。
そうすると、気功というものではないので、軽い体操をしているだけという感じになった。
いつも、元気なころには、深呼吸も簡単だし、当然のことと思っていたが、やはり風邪をひくとむりなのだなぁとつくづく思った。
ヨガも、おそらく、厳しいと思ったので、とりやめた。
このところ、がんばりすぎていた自分に反省もして、かえって、風邪のおかげだと思った。
体を整えることを考える
若い頃から、特別に運動をしてきたわけではないが、30歳のころから、太極拳を習いはじめ、ずっとそれだけしか知らなかった。
太極拳をしているといっても、週に一回なので、そんなに運動量も多くなかった。
それでも、最近までは、まだ、自分の体の変化には、あまり頓着しなかった。
数年前に、股関節を痛めてたり、膝を痛めたりし、それが、なかなかよくならず、整形外科などにも通ってきた。
やはり、できる限りは、親しんだ陳式太極拳は続けたいと、がんばって続けてきたが、このまま、体の痛みを放置していては、あとで後悔するのではないかとつよく思うようになった。
去年から、体の調整などを目的に、ヨガ、気功なども、はじめた。
そして、やはり、まずは、しっかりと、体のゆがみを直して、いい状態に戻すことが先決だと感じた。
私の考え方は、東洋医学と関係のあるもの、気功、太極拳、健美操などをとりいれて、体を整えていこうというものだ。そのほか、ヨガも取り入れる。
陳式太極拳は、むりのない範囲で、自己練習しつつ、24式もやるつもりである。
これから、どのように体が変化するかは、わからないが、とにかく、その方針でいくつもりだ。
新年好
物心ついたころから、私は、日本式の正月を過ごしてきました。
父が生きていたころは、年越しの餃子を家族全員で作っていたのが、唯一の「中国らしいの正月」の行事でした。
というわけで、今年も、玄関に門松を飾り、おせちとお雑煮を食べて正月を向かえました。初詣は、近くの八幡社ですませ、人気のない静かな野川を散歩するという優雅な正月でした。
どうも、私は、人ごみというのは、好きではないので、こういう過ごし方がいちばん好きなのです。
とはいえ、運動不足にならないように、4日には、少し軽く運動をしました。今年は、心を入れ替えて、少し運動量をふやし、これ以上、体力が衰えないように努力するつもりです。
太極拳は、年数だけはやっていますが、やはり、ふだんの運動量が足りないと、身体の老化のスピードに負けてしまうようです。
これからも、長く太極拳をつづけていけるように、基礎体力だけは維持していけるような生活をしたいと思ってます。
一応、これが本年の目標です。
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「友好」ってなんだろう
最近、日本と中国と韓国の友好関係が、衰退している。いろいろと、原因はあるものの、そろそろ発想の転換が必要なのではないかと思う。
だれでも、世界平和をのぞむ。どんな独裁者でも、彼らは、「世界のためにやっている」という。世界平和を望んでいるという。それゆえ、どこの国でも、「友好関係は重要」という。
たとえ、現状は、けっして良好な関係でなくても、国民にむかって、「A国との友好関係はきわめて重要だから、全力で取り組む」などといっている。
そうではなくて、私はもうすこし、正直になったほうが、いいのではないかと思うのだ。
米原万理さんの『魔女の1ダース』のなかで、とてもいい言葉があった。
歴史や国も文化も異なる者どうしで、完全に相手の立場に立つことは、たとえ善意からであえ土台無理だと覚悟したほうがいい。
おおよそ大多数の人々にとって、自己や自己民族中心に世界は回っている。それは必ずしも悪い良いと決めつけられることではなく、生命体の自己保存本能から発する自然の法則のようなものである。だから、「相手の身になって」考える「思いやり」には限界がある。相手自らに語らせて、常にそれに対して心開き耳傾ける姿勢であることのほうが、より確かな気がする。
私は、小学校、中学校まで「中国人」としての教育をうけ、高校は日本の高校に通った。へんな言い方だが、まさに身をもって、このことを体験した。
高校の友人に、私が受けて来た教育や思想など、理解できないのである。だから、「相手の身になって」という言葉は、あまりにも非現実的なのだ。むしろ、立場はちがっても、相手に心を開いて、聞いてくれるという姿勢のほうが真の「思いやり」なのだと感じた。
国と国、その国民と国民同士は、こういう考え方の上に立って、はじめて、真の友好関係が築けるのではないのだろうか。
大事なのは、お互いが違いを認め、その上で相手に対して常に「心開き耳傾ける姿勢」をもつことなのだ。文化の「違い」は、いいことなのだ。
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調布飛行場祭り
今日は、調布飛行場祭りに行ってきました。午後二時すぎから一時間ぐらい会場にいました。
たくさんの人で混んでいましたが、ヘリコプターや小型飛行機の写真をとったり、和太鼓の演奏を聴いたりして、最後は、落下傘からの降下のデモンストレーションを見て帰りました。
日頃は、中には立ち入りできないのですが、すぐ近くに住んでいるので、よくそばをとおります。飛行機も、みているので、それほど珍しいとは思わないから、毎年まつりはあるけれど、入ったことはあませんでした。
でも、生の落下傘での降下は、どきどきするものですね。テレビでみるのとは、大違いです。そのうえ、ほんの2~3分で着地ですから、カメラでもうまくとれなくて。こんな感じでした。
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ようやくアクセス解析が
わがブログも、予定よりも5ヶ月遅れ、ようやくアクセス解析の機能がそなわった。
正直いうと、もう年内はむりだろうとあきらめていた。加えて、このごろメンテナンスも多くて、更新するにしても、なかなかできない。
すこしは、快適な環境になるのかなと期待しょう。
ところで、わがブログのアクセス回数の方だが、だいたい一日平均11ぐらいである。このごろ、あまり更新もしていないし、もっと、低いのではと思っていたので、感謝している。
リピーターも意外といたので、おそらく、友達や知人などが訪問してくれているのだろう。
ただ、あまり知人や友人たちを意識すると、つい「いい子」ぶりたくなるので、これからは、もうすこし正直な自分を出したいと思っている。
お腹の具合のほうは、どうやらパンシロンN10が効きはじめたようで、騒がしくなくなってきた。
旧友と会って
16日に、アメリカから一家で日本に来ている旧友のHさんと5、6年ぶりに会った。
お互い、体型などはそれほど大きな変化がなかったので、すぐにわかってよかった。
彼女は、その前日の夜、クラス会に出ていて、デジカメでとった写真を見せてくれた。
女性のほうは、見分けがつかないほど変わっていなかったものの、男子は、「どこのおじさん?」か、わからない人が多かった。でも、考えみれば、みんなもう年なんだよね。
ただ、性格だけは、昔のままというのが、私と彼女の一致した意見だった。
男性の多くは、自由業をしていて、アメリカや他の国と日本を行き来している。日本の会社に勤めている人は、まれだ。飲食店経営、医者、貿易などのほか、会計士などの資格をとって仕事する人が多い。
女性は、やはり夫婦で経営している店で働いていたり、日本の会社に勤めいたり、あとは、主婦をしながらパートという形が多いらしい。
彼女と話をしていて、印象に残ったのは、「私も、最近転職したのよ。でも、日系企業は、キャリアよりも、年齢でとるからはじめから、応募しなかったわ。今、自分のキャリアがいかせて、時間的に自由になる仕事についていて満足よ」とのこと。
彼女の場合は、ずっと経理の仕事をしていたらしい。今は、ずっとフルタイムの勤務だったが、今は、半日の勤務にして、残りは家族のために使ったり、健康のためにジムに通ったりしている。
やはり、住んでいる国が違うと、考え方も生き方も違うなぁとつくづく思った。
ときどき、日本式の考え方にすっかり洗脳されている自分に気づくことがあるが、今回は、いろいろと考えさせられた。
そういう意味で、うちのクラスの男子は、アメリカと日本を住まいにして、賢い生き方しているのだと思う。
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ベルキーの中国人
ベルギーに十年以上住んでいる友達G(中国人)がいる。彼女が、十数年ほど前に、ベルギーに留学していたころ、現地の語学学校(フランス語)で知り合った日本女性がいる。その人は、今東京に住んでいて、先日はじめてお会いした。
その人はCさんという。Cさんと私は、同じ年生まれなので、話も合う。
Cさんは、十数年ほどまえにベルギーに行き、そこでベルギー人の男性と知り合い結婚。長女は、そこで生まれ、その後日本に一家で戻った。長男は、日本で生まれた。ふたりの子供は、日本で育ったので、中身は日本人そのもの。ただ、ふたりとも、ベルキーとは、親戚もいるので、行き来があり、フランス語はできる。
ご主人がベルギー人なので、しょっちゅうベルギーに行くし、彼女も今年はじめから数ヶ月間、娘が留学していることもあり、ベルギーに行っていた。
私は、Gさんの暮らしぶりなどを聞いた。
「ベルギーにも中国人街があるの?」と訊ねた。
「日本のような大きなものではないけれど、ありますよ。その一角がすべて中国人の商店が並んであって、いろいろな店があるの。特に、私など日本の食材がそこで手に入るから、重宝しているの」
「日本人の食材店は、あまりないの?」
「そうではなくて、高いのよ。だって、そこにすむ日本人は、いいとこの商社に勤めているから、高くても平気なのね。私なんて、同じものが安くそろうから、中国人のお店で買うの」
友達のGさんのお店は、残念ながら、彼女にいわせると、場所がわるい。中国人街がはずれているからだ。しかし、お店は、小さくても、味がいいので、中華をティクアゥトするお客で繁盛している。もちろん、坐って食事もできるが、ほとんどのベルギー人は、みなティクアゥトするらしい。
そのほかにも、たくさん話を聞いた。3時間ばかりの間で、いままでテレビでしか見たことのなかったベルギーがすこし近くなったような気がした。
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養老さんの「絶対音感」説
養老孟司の「記憶がウソをつく!」の中で、「絶対音感じゃないほうが高級」ということが書かれてありました。
耳の構造からすれば、絶対音感で聞こえるのは、当たり前とのこと。人間は、本来その能力はそなわっている。ところが、普通の人は、音が少しずれていても、それがおなじメロディだと認識できる。なぜか同じパターンだとわかる。ところが、絶対音感の人は、ピアノの半音ずれても、わかるから、それを違うふうに認識してしまう。
こういう説明を読んでいくうちに、中国語の声調が日本人にとって、なかなか難しいのは、絶対音感の問題ではなく、むしろ、母語の音感がベースになっているせいだと思った。
私の場合、小さいころ、中国語と日本語の両方を聞いて育っていたので、この二つの言葉の音感がベースにあるだけのことなのだ。
しかし、日本語しか話さない人でも、中国語の声調をマスターしてしまう人がいる。その場合、やはり、本人の育った環境の中で、いろいろな音感が自然にそなわっていたのではないかと思う。
でも、先日ニュースで二十歳まで、日本語が話せた元日本兵が、長い年月ロシアにいて、数十年ぶりに故郷に帰ったとき、日本語がまったく出て来なかったという話があった。これには、驚いてしまった。
言葉というのは、毎日使わないと、忘れてしまうものなのだろうか。
私自身、最近は、積極的に中国語の読み書きなどやっているが、確かに、華僑学校を出てから、次第に「話す」能力は落ちてきていた。いざ、話そうとしても、まるで英語やフランス語のように、頭の中で作文しないと口から出てこない。
自分では、そんな自覚はないが、確実に中国語が遠のいていくのだ。
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「狗主人」と「ご主人」
林祁という人の随筆に「日本に住む華僑は、ご主人を文字って狗主人という」という話があった。「狗」(gou)の中国語の発音が、「ご」と似ていることから、文字ったものだ。
しかし、私はこの話は、初耳であった。まぁ、一言に「華僑」といっても、どの範囲をいうのかによって違ってくるが。
親子二代以上の華僑で、しかも、華僑社会にしっかりと根付いている人たちもいるし、私のように自分が小さい頃から日本で育ったものや、帰化した人たちも含めていうのか。
生活のスタイルが華僑らしい人たちもいれば、ほとんど、外見も生活も日本人と変わらない人たちもいる。
少なくとも、私のような立場の「華僑」ではないなと思った。
中国人というのは、「敬惜字紙」といって、「書いたものを惜しむ」からこのような言葉の遊びがあるのだと言っていた。
でも、確か、中国人がこの「狗」を使うときの意味合いって、けっして、良い意味ではなかったから、これは、「相手をばかにしてる」というニュアンスがあるのだ。
最近、中国でも、犬をペットに飼う人も増えたし、愛玩動物として家族としてかわいがるようだが、昔は違っていたらしい。家畜と同様、番犬として使う他、食用にもしていた。
だから、今ならば、「狗主人」というのも、そんなに悪い意味ではないのかな。
少なくとも、あのエッセイを読んだ人が、日本にすむ華僑がみんなみんな「ご主人」を「狗主人」と呼んでいると思わないでほしいものだ。
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同窓会というけれど
先日、10年ぶりに華僑学校の同級生のMさんから同窓会のお誘いがあった。
私の電話番号は、アメリカのすむHさんから聞いたらしい。そのHさんとは、ずっとメールのやりとりをしているし、以前彼女が日本に来たときも、会っている。
その彼女が7月に家族といっしょに日本に来るので、同窓会をしょうとMさんは思ったらしい。
Mさんは、わりとこうゆう同窓会の時には、発起人として連絡をしてくれる。それは、感謝しているし、最後に連絡があった10年前(私は、結婚していた)も、年賀状を出し、彼女は私の新居へ連絡してきた。
ところが、彼女はすっかりそのことを忘れていた。「えっ、結婚したの」といわれ、一瞬自分の思い違いかと思ったぐらいだ。
電話を切ってから、確かにうちのだんなを連れて、母校に行ったことを思い出した。結局は、ちょっと顔を出しただけだったから、忘れたのかもしれないが、結婚したことまで忘れてしまうほど、私は印象には残らない存在らしい。
20代から30代にかけて、幾度も同窓会には出たが、私たちのクラス(特に女子)は、昔仲良しだったグループ以外とは、あまり会話もしない。私が、近況をきくと、急に真顔になり「なんで、そんなこと聞くの」と言われたこともある。私のほうこそ、「ここはクラス会なんだよね。近況も聞いてはいけないのなら、開く意味あるの」と言いたかった。
大学の同窓会は、一度だけ出たが、そんなになじみのない人とは、突っ込んで話さない。でも、「いま、どうしてるの」と聞けば、にこやかに一応答える。それが、普通だと思う。
どうも、これは、うちのクラスの特質なのかどうか知らないが、同窓会は居心地悪い。自分の親友をひとり同伴しないと、いく前から憂鬱になる。
Hさんには、会いたいが、今回は、やはり遠慮しょう。(その日、用事があって、都合が悪いのも事実だから)この数日、ずっと、このことで頭がいっぱいになった。でも、自分に正直が一番。
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母語ってなんだろう
先日、こんな文章を読んだ。
「両親が日本国籍を持った日本人でも、幼児期から思春期にかけて過ごす環境が日本以外であれば、当地ではなされる言語が、その子のもっとも得意とする言語になります。この事実から、人種、国籍、などといった区別は、その人がどの言語を習得するかとは関係ないことがわかります」
母語というのは、広辞苑を調べると、
「幼時に母親などから自然な状態で習得する言語。第一言語。母国語というと国家意識が加わる」
私が、これまで、自分の母語と思ってきたのは、中国語であった。それは、華僑学校での教育によるものが大きい。しかし、最近、日本語と中国語の違いをノートにする中で、はっきりとわかったのは、自分の思考は日本語的だということだ。
ということは、私の母語は、日本語かもしれない。
ただ、私の場合、生まれは、京都で二歳までそこにいた。そのあと、六歳までは台北に住んでいて、その間完全に中国語オンリーの子供だったのだ。六歳に日本に戻ったとき、私は日本語がしゃべれなかった。半年間、絵本やテレビ、近所の子供と遊んで、日本語を覚えていったという。そして、華僑学校は二年生から編入した。その後、中学卒業まで、日本語と中国語の両方を学校で学んだ。各教科も、日中の両方の教科書を使った。
それでも、気づくと、やはり日本語のほうが、ウェイトが大きくなったのかもしれない。
高校から大学、社会人となってからは、中国語を使う機会は、ほとんどなかったし、物を考えるときは、日本語でしていた。
こうなると、今やはり、私の第一言語は、日本語で、中国語は、第二言語かもしれない。ただ、中国語は、私にとっては、外国語ではない。むしろ、精神面からみると、両方とも、私にとっては、母語なのだ。
こういう、感覚というのは、バイリンガルの人たちは、どうなのだろうかと思ってしまつた。
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頭の体操に近いな
最近、メルマガの「毎日中国語新聞を学ぼう」とそのブログを利用して、自分で、訳をつける練習をしている。(このブログからリンクしているので、参照してください)
でも、はっきり言って、訳というよりも、作文に近いものだ。
もとの日本文の意味を把握したら、あとは、中国語の構文に組み立てていかなければいけない。特に、語順が違うだけでなく、単語も違うし、用法も違う。
やっていて、一番思うのは、すっかり日本語になれた「頭」を瞬時に中国語の「頭」に切り替えるのが、いかに難しいかだ。
どうしても、脳というのは、いちばん慣れている言語をベースに文章を組み立てていくものだ。
ただ、こういう、訓練を積み重ねていかないと、私の場合は、どうしても、ネィティブのような中国語の文章は書けないなと思う。
まだまだ、頭の体操は、続くのです。きついなと思うけど、できると、ちょっとうれしくもある。
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久しぶりに友人と会って
今日は、私にとっていわゆる「知心之友」と会い、おもいっきりおしゃべりを楽しんだ。
彼女は、華僑学校時代の友達なので、日本語と中国語まじりで会話できる。普段、不自由なく日本語で生活をしているものの、ときどき、なんだか型にはめられているような感じで、窮屈に感じることがある。
たとえば、今ある言葉は、どうしても、中国語のほうがしっくりすると思っても、相手が日本人の場合は、使えないので日本語で話す。それが、彼女との間では、そういう制約がいらない。
たしかに、意味の上では、日本語も中国語も同じなのだから、相手にはちゃんと伝えたいことは、伝わる。しかし、言葉というのは、「意味」以上の「感覚」のようなものがある。
たとえば、ある言葉があって、意味はまったく同じ。日本語でいうと、すこし、婉曲に聞こえるが、中国語だと、ストレート。私は、いま、ストレートのほうを選びたいとする。そうした場合、中国語がぴったりくるのだ。
彼女だけではなく、以前、アメリカから一時帰国した、やはり華僑学校の同級生と会ったときも、私たちは、ごく自然に二ヶ国語会話に入っていった。彼女も、向こうでそうしているのだなと思った。
私たちの会話を聞いていると、中国から来た人は、まったく理解できないし、日本人からみれば、「あれはなんだ」ということになるだろう。正直いって、私たちだけの言葉といってもいい。
あまりに、ブロークンなので、自慢にもなにもならない話だが、私たちは、それがすごく自然なのだ。今日は、日頃たまったストレスが解消した。
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NHKだけ特別扱いなの?
いろいろな不祥事を起こし、反省してますといいながら、また使い込みが発覚。おそらく、ほんとに民営化しないとこの体質は変わらないのだろう。(NHKは、真の民営企業ではないから)まだ、私のように仕方なく受信料を払ってくれている人がいるだけ有難いと思うべきだ。
それなのに、政府が法律を変えてまで、守らなくてはならないほどの価値がNHKには、あるのだろうか。受信料を支払わないと罰則という法律を設けて、テレビをもっていればみなNHKを見なさいと強要することが、「国民の知る権利を守ること」なんだろうか。
NHK受信料を払いたくないなら、テレビを持たないようにするしかない。払わなければ、テレビを持つことという権利を奪われるということだ。われわれには、選択する権利もないのか。
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言葉の問題だけか
先日、NHKの夜7時半からの「クローズアップ現代」で、外国人妻の孤立をテーマにしていた。確かに、言葉が通じないことで、孤立してしまうということはある。しかし、それでは、私たちのような日本語ができて、生活習慣もわかっている華僑は、日本人社会に完全に溶け込んでいて、なんの問題もなく、暮らしているのだろうか。
少なくとも、私の知る限り、そんなことはない。たとえば、親が帰化していて、日本人の苗字で日本の社会に溶け込んでいる人も、「実は、もと中国人」というのは、やはりそれなりに勇気がいる。私の友達などは、日本人と結婚後、夫から帰化したことは、言うなと言われた人もいる。
結局、一方では、国際交流といって、盛んに活動している人たちも、ほんとうに外国人が日本の社会に心地よく溶け込んでいくには、何が一番大切かは、知らないのだと思う。
少なくとも、国際交流に関心のある人は、英語のほか、少なくとももうひとつぐらいは勉強し、自分から外国人の本音が聞けるようにするべきだと思う。
ただ、外国の文化が珍しくて、楽しいからやってみようかというのでは、結局、表面的な国際交流に終わってしまうと思うから。
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華僑の結婚相手
私の華僑学校の同級生の場合、華僑同士または日本人との結婚がわりと多い。台湾や大陸の人やその他外国人と結婚した人もいるが、意外と少ない。
一言で、「華僑」と言っても、親の代から日本に定住していて、日本で生まれ育った人。親が台湾や大陸などから仕事で来た人。また、親の職業が、医者、飲食店経営、貿易、公務員(台湾や大陸などの)、その他の仕事などで家庭の雰囲気とか、考え方も違ってくる。
私のクラスでも、いくつものグループに分かれていたが、そういうこともひとつの要因だった。それだけ、中国人は、複雑で同じでないのだ。
私のように、ハーフの場合、母親が日本人か中国人かで、かなり家庭環境が異なる。小さいころから、中国の親戚との付き合いが多かったか、日本人との付き合いが多かったかでも違う。
私は、結婚相手は、同じ華僑か日本人かが妥当だと思っていた。中国や台湾の人が結構相手だと、その親戚とつきあう自信がなかったのだ。それは、華僑学校時代に、さまざまな友達と口げんかしたりした体験からよくわかっていた。
縁あって、私は、日本人と結婚することになったが、日本人と結婚して、苦労している同級生の話をたくさん聞いていたので、結婚当初は、覚悟していた。だが、結婚後、幸い、主人の親戚は、みんなおおらかで、うるさい人もなく、平和に暮らしている。
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「イナバウアー」が最高
金メダルのみに執着せず、「見る人からもう一度見たいと言ってもらえる演技」をすることにこだわり、そして、オリンピックを楽しんだという荒川静香さんの心が、多くの人に本物の感動を与えたのだと思う。
今回、はじめて、フィギアスケートをジャンプの成功のみで、評価されるべきではないと痛感した。そして、点数にはならないが、ひときわ多くの拍手をもらったのは、「イナバウアー」だったのもすばらしい。
人は、無欲ではいられない。本当に無欲だと、生きる意欲という欲もないということになる。だが、問題は、「欲」の内容だ。品格と言ってもいい。
世の中の多く人々を苦しめる「薄汚い欲」もあれば、「多くの人に感動を与え、喜びをあたえるきれいな欲」もある。
彼女のは、白く輝く氷のような、きれいな美しいものだった。その象徴が「イナバウアー」だ。だから、私は、「イナバウアー」が最高。
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国際交流のあり方
以前、私は、ある国際交流協会に入ったことがある。だいたい、どこもやることは、決まっていて、毎月さまざまなイベントや、教室、旅行などを企画して、日本人と外国人の交流を図っていた。
ある年の夏に、そこで企画された旅行に参加した。
私は、ごく普通のどこにでもあるツアーに参加しているつもりでいたし、日本人でも中国人でも、インド人でも、その他の国の人でも皆同じなのだと思っていた。
まず、自己紹介して、それから、バスの中では、日本人の会員が次から次へと歌やゲームを企画していった。私は、前日の仕事の疲れから、わざと後ろの席にひとり坐り、目的地に着くまで、のんびりとしていた。
ところが、バスが休憩場所で停車していると、親切なスタッフは、わざわざ誰かの隣に坐りませんか?勧めにきた。「私は、ここでいいです」というと、それ以降、だれも話しかけてこなくなった。気難しい人とか、交流会に参加しているのに、協力的でないなという風にとられたのかもしれない。なんでも、みんなと一緒がいいというのが、日本流だということは、私はよく知っている。しかし、こんなところに来てまでとは、思わなかった。
その後、予感は的中した、私は、彼らの交流相手ではないらしく、明らかに他の外国人とは、扱いが違う。たとえば、宿では、いくつか大きな皿に当地の名物が並べられていた。
私の前におかれたものから、私はとって食べようとした。ところが、「それ、こっちにかして」と私が箸をつける前に、もっていかれた。スタッフたちは、ゲストである外国人には、ほんとによく気をつかった。私は、なんでも、最後だった。
そんな中、私が中国人たちといろいろと話ができて、私なりの交流ができたことが、旅の唯一の収穫であった。
外国人同士は、お互い言葉が通じなくても、けっこう対等にごく自然に交流できたのに、なぜ日本人は、自己流の交流を人に押し付け、逆らうものを排他するのかとがっかりした。
それ以来、私は、日本式の国際交流には、賛同できない。
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開会式は、よかったが
特に、期待していたわけではないが、今回のトリノの冬季オリンピックの開会式は、面白かった。
なにしろ、いろんな団体舞踊のほか、歌あり、オペラあり、F1カーまでも登場して、盛りだくさんなのに、飽きないのだ。
聖火の点火の場面も、なかなか芸術的につくられている。毎回、いろいろな仕掛けを工夫しているが、単純なのがいい。
国民性もあって、情熱的な雰囲気がよかった。各国の入場も、よく知っている曲を使っていて、言葉を越えて、みんなで歌っている場面は忘れられない。
このような、楽しい開会式のあと、日本の選手は、「あと、一歩」の連続で、マスコミもけなすわけもいかず、「がんばりました」と言ってあげるのをテレビで見るたびに、ため息がつく。
まぁ、まだ始まったばかりだから、参加することに意義があるのだから、と見守りましょう。そうすれば、朗報がとどくかもしれない。
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悲惨な象の実態
タイの「象使い」のイメージは、私にはけっして悪いものではなく、きびしくも愛情をもって象を調教しているというものであった。
ナショナルジオグラフィック誌2006年一月号の「タイの都会に暮らすゾウ」という記事は、ショッキングであった。
今、タイの野生のゾウは、3000頭あまり、人間に飼われているゾウも3000頭とのこと。そして、そのゾウは、木材運びなどの重労働を強いられ、殴られ、傷つけられて、盲目になってもなお働かされ、中には、夜も昼も働かすために、ドラッグを飲まされるものもいる。
こんな実情を知らない、観光客は、象に曲芸をみて、楽しんでいる。そして、わずかばかりのお金や、象のえさ代を出して、満足している。しかし、象のえさ代のほとんどは、人間がもらうのだ。
昔ながらの「象使い」もいるが、今はほとんど飼い主に雇われている「象使い」が多く、彼らは、満足に象についての知識もないらしい。
こうした悲惨な象を助けようというNGOもいることをはじめて知った。
象は、タイの国の象徴というが、現実は、あまりにもひどすぎる。
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アクセス解析のサービスが
私も情報通ではないと自負はしているが、ココログフリーのほうが、ベーシックよりも先にアクセス解析があるとは、知らなかった。ヤフーインターネットの雑誌の表紙をみて、なにか胸騒ぎがして、購読するまでは。
いくらどちらも、無料とはいえ、ベーシックは、毎月会費を払い込んでいるのだから、あきれる。会員の苦情が多く、なんでも、来月からやっとサービスが始まるらしい。
実は、去年、何度かほかの無料サービスブログへこのブログを引っ越そうと思っていたが、いつも見にきてくれている方がいるので、やめたのだ。
現在、他で利用しているブログは、エキサイトブログがあるが、ここは、当初からアクセス解析があった。特に、写真のアップロードも操作が簡単で便利なので、花の写真を載せている。
ココログも、もうすこし利用者への配慮がないと、他のブログにとられるのではないか?
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「熊猫」と「猫熊」、どちらもパンダ
1月5日付けの、東京新聞に「白黒難しパンダさん」という記事が載っていた。
台北市立動物園の専門家が、パンダを「熊猫」ではなくて、「猫熊」と呼ぶのだという。なぜなら、「パンダは、猫よりも熊に近い。正しくは、猫熊」とのこと。だが、パンダも熊も、「ネコ目」なのだ。
どうして、中国では、逆さまに「熊猫」というかといえば、信じられないが、「昔、中国のパンダ展示会で、漢字二文字を横並びに「猫」「熊」と表記したところ、地元紙がこれを右から読んで「熊猫」と報じた」のがはじまりとのこと。
ちなみに、レッサーパンダを辞書で引いてみると、「小熊猫、小猫熊」と両方の表記があった。ということは、どちらでも、いいのではないかと思うが。言葉というのは、こういうことがあるから面白い。
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感受性と理念
ある日中比較研究をしている在日の中国の女性大学教授の話である。
その人が言うには、日本人は感受性が高いということで、生活の中に美的感覚があるという。ただ、日本人にとっては、ごく自然のことなので、自分ではあまり意識していない。
一方、中国人は、理念が好きで、日常の些細なことまで理念で図ろうとする。これは、孔子の儒教の存在も影響しているらしい。たとえ、日常の小さなことも、理念と有機的に結びつけて、分析し、思考する。そして、自分なりに納得のいく答えが出てから、行動するのだ。
そう言われてみると、私が中華学校にいたころは、友達とよく些細なことで自分の意見を交わした。互いが納得しないと、けんかになるが、それが普通だった。ところが、日本の高校に入ると、まわりにそんなことをする人はいない、相手がいないので、私もだんだん彼らのように振舞った。一言でいえば、「あいまい」がいいということを学んだ。
今は、非常に器用に使いわけている。日本人との付き合いでは、日本的に振る舞い、中国人とは中国的に振舞う。
面白いことは、私は、何でもいえる中国的な付き合いのほうが、ストレスが少なくて、気が楽だということだ。
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誰に読んでほしいのか
毎月、中国語の学習雑誌を講読しているが、その中で、日本の人が中国語の作文を書く添削コーナーがある。以前にも、「消化不良」になりそうだと書いたが、やっと原因がわかった。
作文を書いた人は、自分の作文を誰に読んでほしいのか、理解してほしいのか考えてないのではないかと。
この人の書いた日本的な中国語は、その感性からして理解できるのは、中国語のわかる日本人か、私のような二か国語を理解できる人間である。
添削では、細かな指導がなされているが、毎回、同じような感じで作文しているように思えて、消化不良になっていたのだ。
私も、中国の親戚に手紙を書いたときに、「なにをいいたいのか、よくわからない」「なぜ、そう感じるのか理解できない」というような指摘を何度もうけて、やっと、日本人に書くように手紙を書いていたことに気づいた。
ある、出来事について、「こう思って行動した」ということだけでも、日本人は、いちいちその行動に論理性があるかどうかなど指摘はせず、「ああ、そうか」と黙って受け入れてくれる。ある意味で、「あいまい」でもいいのである。しかし、中国語の場合、「あいまい」ではいけない。それなりに、たとえ反対されようと、批判されようと、「私は、こう考えた」ということを、必ず述べて、結果に導くという語りかけでないと通じない。
この作文を書いた人は、先に日本語で作文して、それを中国語に置き換えているから、言語は中国語でも、中身は日本語とかわらないのである。
これは、作文の技法の問題ではなく、もっと根本的な問題だと思った。
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風邪を楽しむ
わが太極拳の先生のお言葉である。
先月、ほんとにめったに風邪をひかないのに、インフルエンザにかかった先生は、それでも、「たまに風邪をひくといいこともあるね。体の節々がいたむのも、いつも痛くなったことがないので、新鮮に思える」とのこと。そして、もちろん、その間も指導していらした。
今日「4週間かかったけど、やっと、完治したようです。でも、風邪ひいても、必ずなおると思えば、むしろ、その間はいつもよりも体を休めたり、手をぬいたりと、風邪を楽しめばいいんですよ。」とのこと。
先生は、体だけでなくて、精神的にも強い人だと思った。ほんとに、強いというのは、太極拳の極意にもあるように、相手と力比べをするようなやりかたではなく、どんな場合でも、自分をくずさず、相手の力をかわすというもの。マイナスをプラスにするという発想だ。
わが先生は、技の上のみでなく、精神的にも、非常に太極拳の真髄を会得されていると感じた。私とそう年が変わらないのに、すごい人だ。
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町会での募金に疑問
毎年のことながら、わが町会では年に3回(赤十字、赤い羽根、年末助け合い)の募金集めがある。専用の袋があり、領収書もついている。
袋の表には、金額と名前を書くようになっているため、集金にくる方には「誰がいくら」がわかるので、回りと歩調をあわせて、多すぎず少なすぎずにするようになる。また、それぞれの班ごとの幹事が集めるため、「寄付しません」ということは自分の評判をおとすのがいやなら、事実上むりだ。
幹事にしても、年に三回も募金集めをしなければならず、自分がしたくなくても、相手に強要しているという部分もあるので、心苦しい。
今日も、今年最後の募金を集めにきた方が、そういう心苦しさを訴えていた。
それぞれの団体は、全国でこうした町会を募金集めに利用していることに疑問をもたないのであろうか。
袋だけ配って、地域の集会所などに募金箱をおけば、いいのに。それが、募金本来の形だと思うが、だれも声を上げないし、このままずっと続くのだろう。
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男の里帰り
夫は、今日から一泊で新潟のほうに里帰りした。毎年、春と秋の二回は、里帰りしている。
「独身のころは?」と聞くと、良くて年に一回程度らしかった。
両親が年老いたからということが、里帰りの理由となっているが、両親は、義弟の家族と同居している。甥と姪に、こづかいをあげたり、ほんのつかの間、田舎で解放感を味わえるからではないかと私はにらんでいる。
なにしろ、里帰りの朝は、ご機嫌で早起きして、うれしそうに出かけるからだ。
実家のほうも、男ひとりの里帰りは、手間もかからずに気楽でよいだろうと、私は、遠慮している。
結婚した当初の数年間は、いっしょに顔をだしていたが、義妹も夫婦ふたりだと、いろいろと手間がかかると思ったし、夫が年に二回は里帰りすると宣言してからは、なおさらだ。
今回は、いつも夫がお世話になっている義妹にも、お礼をさしあげてと言って送り出した。ちょうど、今頃は、田舎も紅葉がきれいだろう。
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CATVでインターネット
8月にADSLを申し込んだが、翌月開通予定日にうまく信号が届かず、プロバイダ側もいろいろと調整したが、ついにADSLは不可、解約となった。原因は、おそらく家の周辺地域が電波障害のおこる地域だからだろう。携帯電話での通話もスムーズでないのだ。
光も検討してみたが、戸建だとやはりまだまだ月額の料金は割高に感じる。それに、通信スピードも、それほど高速でなくてもいい。かねてから、うちはCATVを契約していたので、そのケーブル線でのインターネット接続を利用しょうと思った。
申し込んだのは、2Mbpsコース月額3045円のもの。我が家には、これでちょうどよい。工事は、すでにあるテレビのケーブルに、インターネットを追加するので、ブースター(増幅器)をつけて、分配器で部屋にケーブルを引くというもの。先日無事に工事が完了し、開通した。
とにかく、いままでとは比べ物にならないぐらい速い。特に、あちこちのHPやブログを見たいときは、画面(特に写真)の表示が速く、感激してしまった。これから、ブログの投稿も楽しくなりそうだ。
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国勢調査方法の矛盾点
今回、国勢調査において、逆に個人情報が盗まれるという事件が発生した。私も、いまのやり方には、時代に合わないなどの矛盾点を感じた。
まず、うちに来た調査員は、会うなり「家族は何人ですか。男女の別は?」と聞いた。なんでも、あとで「用紙をもってくるのに、準備がありまして」とのこと。納得いかないが、正直にお答えした。つぎに、「お隣は、何人ですか」と聞く。隣は、建て替えていて、家族構成もかわっていた。たまたま、不在だったらしいが、聞かれるまま何人かだけ教えたが、あとで「なぜ、他人から聞くのか」と不快に思った。
そういうことをしているということは、うちも不在ならば、よそから聞かれているということになる。仕事をはかどらせようとしているのかもしれないが、個人情報についてはまったく無神経だと思った。
調査に協力しないのは、調査の内容が信頼できないアルバイトの調査員がするからだ。 ある新聞記事によれば、こうした情報がどこでどのように活用しているかについても、明確に答えがかえってこなかった。ただ、「国で決められているから」とか、「あればなにかの役にたつ」ということで、やっているように思う。
どうしても、国が必要とするなら、国民すべてにID番号をふり、しっかりと情報管理するという法律をつくってほしい。今の住民票や納税の情報、健康保険関係からの情報などを一元化できる。 いずれにせよ、今のまま、中途半端ではいけないのではないか。
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男女平等観
ある中国人女流作家のエッセイを読んだ。そのひとは、若いころ男装して紅衛兵として革命に参加した経歴をもっている。その人は、古い封建的な中国社会の女性が解放されたと当時は信じて疑わなかった。しかし、実際解放後の女性は、外では男と一緒に働き、家に帰れば家事に追われ、二重の負担を負わなければならなかった。その負担に耐えて、両立できた「優れもの」もいるが、結局は少数なのだという。多くの場合、過労で体を壊したり、家庭が崩壊してしまう。そんな有様を見てきたその人が出したのは、「男女平等が目指すものは人権および人格の平等であるべきであり、身体的な差異をなくすことではない」という結論だった。
日本の女性は、今まさにその「途上」にある。その負担がだんだんと社会現象になりつつあるのではないか。たとえば、子育て支援についても、まだそれは女性の仕事という社会通念が根強いが、男女の身体的な差異をなくすことができない以上、本当の男女平等というのは、その負担を軽くすることがなくては、「少子化」は加速するだろう。
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夏祭り
東京は、近年「夏祭り」が盛んになってきたような気がする。私の住む町も、私が子供のころ、近くの神社で盆踊りがある程度だった。ところが、近年は、7月と8月に盆踊りや、神輿などのイベントがある。この傾向は、隣の市町村でも同じようだ。
夫の田舎は、新潟の小さな村である。最近、近くの村と合併して「区」となった。お盆のころ、当然夏祭りはあるだろうと、聞いてみた。
「昔は、あったけどね。今では、盆休みでも帰ってくる人が少ないから、やらないみたいだ」とのこと。
甥は、小学四年だが、一学年一クラス数人のうえ、なんと男の子はたったふたり。その子とは、幼稚園のころからいっしょなのだが、仲が悪いので、遊び相手がない。野球も、サッカーもできないらしいから、「なにして遊んでるの」と聞くと「今は、本(漫画も含む)を読むのが好き」とのこと。自然は、いっぱいの環境なのに、外で遊ばない夏休みなんて。
そんな村では、大人も少ないので、祭りは無理なのだろう。複雑な心境である。
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漫画で中国語
ある中国語の語学雑誌(CD付)に人物インタビューのコーナーがある。毎回、アジア各地で活躍している中国人をインタビューしていて、生の声が聞ける。
その中で、日本でも映画などで活躍中の若手の俳優P.Hの話がおもしろかつた。 彼は、アメリカで生まれ、幼少期は台湾で育ち、10代は、カナダへ、その後大学生のころ、また台湾にもどり、スカウトされたという経歴である。
インタビューの中で、自分は、アメリカンスクールで学び、カナダへ移ったので、学校で中国語は学んだことがないというのだ。彼の肉声を聞く限り、とてもそうは思えないほど、しっかりとした中国語なので、びっくりした。
彼がいうには、子供のころ、台湾には、日本の漫画がたくさん入ってきていて、内容がとても面白かった。漫画は、すべて中国語に翻訳されているのだが、それを教科書がわりにして、覚えたのだという。もし、そうだとしたら、「天才」である。
もちろん、彼は、人に隠れて、努力して中国語を学んだに違いない。インタビューの内容を書きおろしたものを読むと、その人の中国語の実力がよくわかる。ほんとうに、脱帽した。
また、彼は、英語が堪能であり、いろんな国に住んだりしていて、それぞれの文化との接し方もうまい。たくさんの違う文化を理解すればするほど、演じるときに役にたつのだという。つまり、一つの場所だけに住んでいれば、そこの人たちの一種類の方法でしか気持ちを表現できない。「ありがとう」という言葉だけでも、住むところでよって全部違うというのである。 そのとおりだと、二度脱帽した。
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中国語の作文添削
最近中国語の語学雑誌がたくさん出ていて、私も愛読しているある雑誌での出来事である。
四月から新しいコーナーとして、作文の添削講座というのがはじまった。
これは、日本人の書いた中国語の作文を、在日中国人作家が添削する講座である。
一回目、その人の作文は、見たところ中級クラスであり、文法の間違いはあるものの、かなり入念に単語も調べられ、その文章の添削は、私にとっても大いに参考になり、さっそくそのような感想を送った。
次の月、またもや、同じ人の書いた文章であった。そのころから、なにやら私は添削前の文章を読むと「消化不良」を感じるようになった。相変わらずの文法の間違えは、ともかく、描写が日本的な表現をそのまま使っているのだ。しかも、辞書から拾ってきた熟語などをむりやり引用していた。
正直に申しあげて、私でも、なかなか熟語などを的確に使いこなせないと思っている。料理でたとえるならば、それは「スパイス」である。上手に使えば、文章が冴えるが、下手に使うと、台無しにしてしまう。
その人は、「勇気」をもって、そのやり方をその後もつづけた。先生は、その「勇気」をたたえていた。たしかに、ひびっていては、なにごとも進歩はない。先生が的確に添削してくれるから、添削後の文章は、もちろん名文となっている。どんな文章でも、添削すれば、こんなに変われるのかという参考にはなった。しかし、私は、なにか納得がいかない。これで、この人は、本当に上達するのか。
先生のお気に入りらしく、これからも続く予定だそうだ。毎回、この人の文章を読むたびに、「ほかにいないの」といいたくなる。はたして、一年後、この人自身の名文を拝見できるか、楽しみである。
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メルマガで中国語
以前から「まぐまぐ」などのメルマガを利用して、中国語の学習に役立ててきた。 特に、新聞などからの時事中国語などは、新しい言葉がたくさん含んでおり、遅れをとらないためには絶対に必要なものである。
もちろん、一番いいのは、毎日中国語の記事を新聞やHPなどで読むことだが、時間的にもなかなか難しいので、手ごろな記事を抜粋しているメルマガや「新語」をまとめたものなどを利用してきた。 おかげで、世界で毎日起こっている事件について、日本語と中国語両方の記事を読むことができて、同時に同じ意味の言葉を二ヶ国語で覚えることができ、たいへん助かっている。
最近は、かなりレベルの高い良質のメルマガがあって、それだけ中国語ブームなのかなと思っている。関心のある方は、ぜひ自分にあったメルマガを利用してみてはいかがだろうか。
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耐震グッズ
去年の新潟地震で、主人の田舎も震度5だったというので、私たちも、食器棚のガラスには、フィルムを張り、天井との間に耐震用の棒をとりつけた。他に、二階は、箪笥にも、耐震用の棒をとりつけた。とはいえ、「実際そのときになってみないと効果のほどはわからないねえ」と話していた。
先日の東京の地震の際、私は自宅の一階のリビングに坐っていた。いつもと違って、壁も揺れるので、「大きいなぁ」と思っていた。そして、ふと、食器棚のほうをみたら、棚と天井を支えている耐震柱があるためか、まったく揺れていなかったのだ。二階のほうは、本棚から物が落ちたり、テレビが台からずれていたりしていた。
すぐに、テレビをつけると、東京は、震度4とのこと。私は、絶対に震度5ぐらいだと思っていたので、納得いかなかった。そのあと、しばらくして、夕食の支度のために、ガス栓を開けたら、ガスがとまっていた。ガスの安全装置が作動するのだから、ぜったいに震度4ではないと思った。一応、再作動の手順のラベルは、室内に張ってあるので、すぐに外にいってやった。
そして、遅れて東京は、「震度5」だということが発表され、私は、耐震グッズを見直したし、これからは、ガスの安全装置が震度の目安になるなと思った。
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伯父さん
今年、91歳になる伯父さんは、毎日朝早く起きて、牛を放牧し、家畜にえさをやり、 時間のある時は、ラジオを聴き、新聞や本を読むという。耳も目も健康で、毎日この生活を繰り返している。同じ年の伯母は、五男の子供たちで、母親を病気でなくした孫たちの面倒を見ている。胃病があるものの、毎日洗濯をし、家族の食事を作っている。
伯父がいるのは、中国の湖北省の農村である。近年、やっと電気がとおり、昨年やっと伯父さんの家にも、電話がついた。子供は、五男二女。それぞれ家族をもっているが、ほとんど同じ村に住んでいる。そして、そのうちの孫三人は、広東省に出稼ぎにいっている。村に残っている者たちも、農繁期以外は、それぞれ男たちは、近くに出稼ぎにいっている。だから、老人でも、元気なものは、働いている。
伯父について、父から聞いたところ、父とは10歳違うそうだ。伯父は、若い頃、当時ではめずらしく英語を学び、その関係の仕事をしていたとのこと。それから、戦争がおき、中国に文化革命が起きたとき、インテリたちは、攻撃の的になり、ずいぶんつらい目にあったらしい。それからも、田舎の暮らしは、けっして楽ではなく、父とやっと文通が再会できたのは、70年代になってからだった。それから、父はずいぶん田舎に送金し、すこしずつ生活も安定したとのことだ。
20年前に、父が病死し、伯父さんは「弟は、20歳で家をでて、やっと文通がかなったのに、一度も会えずに亡くなってしまった」と嘆いていた。
伯父とは、ずっと手紙のやりとりをしていたので、私は、この間思い切って、伯父に国際電話をかけた。伯父は、私たち家族のことを尋ねたりして、とてもその電話を喜んでくれた。ちょうど、今年は、父が亡くなって20年、私にとっても、とてもうれしい出来事であった。
IQが低いのは、どちらか
7月2日の「東京新聞」夕刊に、「主婦・高齢者IQ低い」というタイトルで、「郵政民営化政府プレゼン資料で゛差別゛」という内容の記事が載っていた。
「人権侵害」という問題よりも、政府が国民に対して、そういう見方をしていたという事実のほうが、問題だと思う。
「主婦層、シルパー層、具体的なことは分からないが、小泉総理のキャラクターを支持する層」ということが述べられているそうだが、そういうふうにマインドコントロールできるという意味にも受け止められる。
早い話、「おれおれ詐欺」や「悪質リフォーム詐欺」と同じで、この人たちは、だませると思っているのではないか。
でも、大きな違いは、選挙によって選ばれた議員は、ひとりひとりの国民の意向によっていつでも首にできるという点である。利権など関係ない、主婦層、シルパー層こそ敵に回すと取り返しのつかないことに気づかずに、このような資料を作成した政府のIQは、高いのであろうか。
個人情報が勝手に
数年前に、ある投資会社からのダイレクトメールが届いた。それから、営業マンからの電話もたびたびあり、まったく興味ないと断りつづけて2年もすると、がまんの限界がきた。
そこで、まずダイレクトメールの受け取り拒否と封筒に明記して、ポストに入れた。しかし、そんなのは、まったく効果なし。相変わらず、ダイレクトメールが届くころに、電話がくる。
毎回、電話の担当には、「私の住所、氏名、電話番号は、名簿から削除してください」と抗議したが、それから2年しても、だめだった。ついに、本社に電話し、その場で、担当に、「端末から情報を削除してください。」と迫った。その人は、その場で端末から私の情報を「確かに、削除しました」と言ったので、電話を切った。
それから、半年はなにもなかったが、また、定型の小さなパンフレットは、送られてきた。会社からの営業マンの電話はなかった。
これは、おそらく、私の個人情報が外部の委託会社におくられ、そこから、定期的にパンレットを発送していると思った。端末の情報の削除がされていても、ほかの媒体にコピーされている情報が更新されていない限り、完全に情報が削除されたとはいえないのである。この会社は、まったく情報管理がルーズなのである。
そして、今日、定形外の封筒にCDつきの豪華なパンフが送られてきた。
この会社は、個人情報保護法に違反してないのだろうか。私は、もし、営業マンから再び電話があったら、その会社名を公開したいと思っている。
「女警部ジュリー・レスコー」から
数ヶ月前から、ケーブルテレビで「女警部ジュリー・レスコー」を観ている。フランスの刑事ドラマで、全部字幕スーパーである。
はじめは、字幕を追うので忙しかったが、不思議なもので、聞きなれると、昔大学時代に第二外国語として学んだ記憶が少しずつよみがえってきた。挨拶の言葉などから思い出し、だんだんと「あれも、聞いたことあるな」という具合になった。
そうすると、だんだんとフランス語に興味が出で来て、ついに二十年以上も埃をかぶったままの辞書をひっぱり出したり、昔のフランス語会話のレコード(当時は、テープも新しく、レコードの方が値段が安かったので、私はこれにした)まで出して聞くようになった。
最初は、市販のNHKなどのテキストを買って、テレビやラジオを聴けばいいと思っていたが、昔の教材のほうが、当時学習した記憶が残っていて、効果的だった。テキストは見ないで、レコードだけをまず聴いてみたが、なんとなく単語なども思い出せる。
語学に対する人間の記憶というのは、けっこうすごいものだと思った。
これからは、ドラマを見ながら、古い教材をICレコーダーに録音して、フランス語も楽しみながら、「復習」しょうと思った。それにしても、もし、このドラマを見てなかったら、絶対にフランス語にまた興味を示すことはなかったのだから、語学はやはりドラマを見ることからはじめるほうがいいのかも。
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二ヶ国語教育(6)
私たちの学校には、中国語と英語のスピーチ大会があった。
中国語の方は、毎月一回、小学一年生から高校三年生まで学年ごとに予選があり、その中から優秀な者が数名選ばれて、朝礼の時に台の上にあがり全校生徒の前でスピーチすることになっていた。
一学年一クラス40名しかなかった為、機会は平等に与えられた。というよりも、出席番号順に一回10名ずつがあたり、拒むことはできなかった。
小学校低学年のときは、自分で作文できないので先生に教科書の中から原稿用紙400字ぐらいの長さの文章を抜粋してもらってただ暗唱するだけだった。高学年になると、自分で原稿を書いたりした。
いずれにせよ、スピーチは原稿を見ながらではいけないので、何度も暗唱できるまで練習した。そのほか、先生からもスピーチの際の細かい指導があった。たとえば、お辞儀の仕方、視線のおき方、話すスピードや区切りの仕方、声の出し方や発音についていろいろ教わった。
だが、いざ自分が当たったときは、とにかくすらすらと暗唱できて台の上でど忘れせずに、無事に終わることだけに全力投球してしまう。友達のスピーチを聞いていると、「もっとこうすればいいのに」と思うのだが、大勢の前では緊張してのどから心臓がとび出してしまうのだ。
そういうわけで、スピーチ大会などなければどんなによかったかと思った。しかし、いま思えば、人前で話す訓練にもなり、正しい中国語を話す練習にもなっていたのでとても大切なことだったと思う。
特に、一歩校門を出れば日本語の世界だったのだから、もしスピーチ大会がなかったら、まともな中国語が話せるようになったかどうか。校内では、日本語厳禁という規則になっていて、中国語だけで話すようになっていたが、友達とは「中国語と日本語のまぜこぜ語」を話していた。また、クラスには生まれたときから日本に住んでいる子と途中から日本に来た子がいたが、それぞれグループをつくっていて普段言葉をかわすこともあまりなかった。そのため、正しいきれいな中国語の話せない子もけっこういた。私も、あまり得意なほうではなかったから、今思えばこのスピーチ大会がなかったら、ほとんど自己流のへんな中国語になっていたと思う。
小学校のころは、私もときどき朝礼でスピーチをすることがあったが、中学に入るとクラスには中国語のレベルの高い子が編入してきたので、ほとんど予選おちだった。ただ、その子たちは、さすがに台湾の学校に通っていたので、聞いていても、感心してしまうほどうまかった。
高等部のスピーチは、ときどきとても内容のあるスピーチが聞けた。ほんとうに自分の考えを自分の言葉で表現している。それは、表現力に加え人の心をつかむことのできるものを持っているということで、その人の人間性の問題かもしれなかったが「すごいなぁ」と私はいつも感激していた。今は、その細かい内容はすっかり忘れてしまったが、感動を与えてくれたことは覚えている。
全校生徒の朝礼でのスピーチは、さまざまな年齢の人たちの中国語を聞くことができてとても意味深い。たとえば、私が中学生なら小学生のスピーチを聞きながら「ああ、一生懸命にこの子も暗唱したんだなぁ」と思い、同級生なら「私よりもちょっとうまいな」、高校生なら「内容が大人だなあ」といろんな感想をもつ。こうしたことは、自分のたどってきた道を客観的に見る手助けになり、またこれからの目標を示してくれる。
同じように、英語のスピーチも中学に入ると全員参加で年に数回行われた。中学部と高等部はそれぞれ分かれて行われ、クラスから毎回10名ほどが当たった。体育館に放課後中学部全員が集められ、当たった者は台のうえに立ちスピーチを行った。
英語のスピーチは英語のH先生の立案ではじまり、みんなの英語のレベルをあげるのが目的だった。審査は、H先生ほか数名の先生が行ったが、けっこう細かく採点された。そして、もちろん優秀な者はほめられたが、他の者も後で教室に呼ばれて、「発音」「スピーチの早さ」「全体の内容」などをひとつひとつ評価され、「君は、話すスピードが早すぎる」「発音が不鮮明」とか細かい指導を受けた。
英語のほうは、朝礼でスピーチすることはなかったのでよかったが、あの心臓に負担がかかる体験をすることには変わりなかった。ただ、みんなレベルがそこそこなので、少し気持ちは楽だった。内容は、ほとんど先生に聞いて原稿をつくり、あとは暗唱だった。おもに教科書からの抜粋だったと思う。こればかりは、100パーセント自分で作文できるという子はいなかった様だ。
このことは、英語の上達にはいくぶんの効果があったのかもしれない。中学のころ、本当に英語は暗記と暗唱ばかりだったが、日本の高校に入るとそれが役だった。暗記のおかげで単語はよく覚えていたし、発音についても少しばかり自信がもてたからだ。
日本の学校では、どのような形でスピーチの練習をするのか、こういう形でのスピーチ大会はあるのか全く知らないが、自発的に参加するというのも悪くないが時として「強制」することで、その子が「不得意」とするものに挑戦させて自己啓発をうながすのもいいのではないかと思う。
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餃子三話(3)
餃子は、中国人だけのコミュニケーションの手段だと、私は信じていた。
去年、私の大学時代の親友と十年ぶりに再会できた。彼女は、日本にいるよりも、フランスに住むほうが性に合うといって、この数年向こうにいたらしい。
積もる話を消化するのには、時間が足りないぐらいだったが、待ち合わせの店が中国茶の喫茶室だったため、話題が「餃子」になった。
「私、向こうで餃子作ったの」と突然彼女がいった。
「だれと?」彼女は、餃子を店で食べたのではない、自分で作ったというのだ。当然私は、向こうにいる東洋系の人たちと、餃子をつくったのだと思った。「材料は、あるの?」
彼女が、言うには、向こうにも、小麦粉や野菜、肉などはあるし、調味料もそろうから、それは、問題ない。ただ、相手は餃子という言葉を知らないから、「とにかく、私の言うとおりに作って」と言ったらしい。すると、相手は、西洋の方?
「皮は、どうしたの?自分たちで作ったの?」
「うん、なんとかカンでやったら、うまくいったわ」
餃子の皮は、薄力粉と強力粉を混ぜてつくらないと、うまくいかないのだ。だけど、それも知っていたわけではないが、なんとなくそうじゃないかと思ってやったら、うまくいったという。
私は、遠くフランスで、みんなが楽しく、わいわいいいながら餃子の皮包む光景を想像するだけで、微笑ましくなった。日本人にも、餃子をコミュニケーションの手段に使える人がいたなんて。恐れ入りました。
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餃子三話(2)
私も、友達と餃子を作った思い出がある。
私が、中学三年生のころ、もうすぐ卒業を迎えるときに、仲良しの友達五人が「なにか、みんなで思い出作りたいね」と提案したのが、きっかけだった。
「みんなで、どこか遊園地に遊びに行くとか、映画を見るとか」
「それって、平凡よね。なにか、みんなでできたら、いい思い出になるのにね。」
それで、あれこれとみんなで話あった。すると、誰かが、
「ねえ、この中で餃子できる人、何人いるの」と思いついたように聞いた。
私も、含めて、みんないっせいに手をあげた。意外だった。確かに、餃子は中国の家庭料理だし、家で作る子も多いだろうが、全員とは。しかも、まだみんな中学生なのに。
それで、五人のうち、学校から一番近くに住んでいる子の家で、作らせてもらうことになった。もちろん、その子は事前に親の許可を得て、材料などは、そのお母さんの好意で、用意してくれたのだ。ただ、皮を作るのは、さすがにみんな自信がないので、市販のものにし、みんなで餃子の餡を作り、皮で包んで、水餃子を作るということになった。
当日、その家に着くと、お母さんが出てきて、「今日は、あなたたちの思い出を作るというので、賛成したのだから、全部あなたたちで、やってね。私は、出来上がるまで、あっちにいっているから」と言った。
私たちには、リーダーがいて、彼女が役割分担をした。野菜を細かく千切りにして絞り、ひき肉と混ぜて餃子の餡をつくる係、お湯を沸かす係、皮を包む係と別れて、じつに手際よく作業した。
そして、自分たちの合作の餃子がゆであがったとき、みんな歓声をあげてよろこんだ。おそるおそるお母さんを呼んで、試食していただくと、「よくできたわね。おいしいわ。ほんとうは、ちょっと不安だったけど、みんなたいしたものね」とほめてくれた。
それから、私たちは、みんなでその餃子を食べた。ほんとうにいい思い出になったとしみじみ思う。
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餃子三話(1)
我が家で、正月に餃子を作るようになったのは、私が小学生のころからだったと思う。
父が材料の指示から、餡づくり、皮づくり、餃子を包む作業、ゆで加減などすべて仕切っていた。母は、その助手という形で、手伝っていた。私たちは、まだ「食べるだけの味見役」だけだった。
小学五、六年になると、はじめて皮の包み方を教えてくれるようになり、それまで「ただの味見役」から昇格したみたいで、誇らしく思えたものだ。妹も、私と同じくその年齢になってから、父から皮の包み方を教わり、私たちの仲間入りを果たした。
我が家で作るのは、水餃子であった。中国では、餃子は主食なので、ご飯はいっしょには食べない。そのため、親子四人で、大晦日の晩餐の分を作る。私たちが、皮を包むようになるころには、だいたい、二百個ぐらいは一度に包むようになっていた。
大晦日の大体午後四時から材料の下ごしらえをし、まず餃子の餡を作り、メリケン粉を練り皮をつくり、そのあと、みんなで皮を包む。七時ごろまで、がんばってやり遂げるころ、ちょうどお腹がぺこぺこになる。餃子をゆであげると、たらふく食べて、満腹感と達成感で一年を締めくくっていた。
餃子作りには、だいたい3時間ぐらいはかかる。その間は、親子でいろんな話をする。親子のコミュニケーションには、うってつけの行事であった。
餃子は、北方の家庭料理で、南方のものではない。父にどこで餃子の作り方を習ったのか、一度聞いてみたことがある。父が言うには、自分の田舎では餃子を作ったことはなかったが、日本に留学してきてから、同じ寮にすむ仲間同士で餃子を作ったときに、覚えたとのことだ。なにしろ、なにかあればみんなで集まり、よく作っていたらしい。この餃子づくりは、友人同士のコミュニケーションにも、うってつけの行事なのだ。
そういう意味で、中国人にとって、餃子というのは、ただの家庭料理の一つではなく、交流の場も作れる、特別な料理なのではないかと思っている。
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二ヶ国語教育(5)
図書室という場所は落ち着いた雰囲気があって居心地良い。私は、とりわけそこが気に入っていた。
私たちの学校の図書室は三十名ほどが坐れる広さで、蔵書もさほど多くはない。年に一回学校側が新しい本を買い入れるが、卒業生や在校生からの古本の寄付も多かった。
書物は、大きく分けて日本語で書かれているものと中国語で書かれているものとがあって、専門書は少なく文学の方が多かった。
私はよく中国語で書かれた少年少女向けの文学、偉人伝、英雄伝、三国誌、絵入りのギリシャ神話などを借りて読んだ。日本語で書かれた本も同じようなものを借りて、両方を読み比べるのが楽しかった。
おもしろい点は、同じ人物の伝記なのに中国語で書かれている方は、「偉大な人物で我々が手本とすべきもの」と少し見上げてしまいそうになるのに、日本語で書かれている方は「どんな人間でも可能性がひめられている」というようにもっと親しみやすく身近な存在だという印象を受けることだ。
このような体験から、同じ事柄でも人によって国によってまったく違う見方があることを自然に学ぶことができた。
放課後、必ず図書室に立ち寄らないと一日が終わらない。図書室の中は私語厳禁で、宿題をしたり本を読んだりする他はしてはいけないのだが、なぜか私はその「静寂」な空間がたまらなく好きだった。
中学時代、中国語の作文の成績があまりよくなくて、先生に赤線で相当数の行を削除された上、「意味不明」と書かれたりして、がっかりして自信を失いかけていた。
先生には、「とにかく中国語の本をたくさん読むこと」だと言われても、あまり難しい本を読んでも途中で投げ出してしまいそうで、なにか自分に合ったものはないかと図書室に行った。あれこれ捜していたら、小学校高学年用の中国語で書かれたギリシャ神話や昔話などが目に止まった。はじめは、すこしレベルが低すぎるのではと思って読んでいたら、面白くなってとまらなくなり数冊借りて読むことになった。
そうやってつぎからつぎへと読んでいくうちに、「文章は簡単な表現で難しい言葉も使っていないのに、こんなに意味が伝わってくるものなのか」と新しい発見をした。
作文の上手な子は、古人の明言を引用したり、熟語をうまく使って大人顔まけのりっぱな文章を書く。私は、作文というのはそうあるべきものだと思い込んでいた。だから、むりに熟語を入れたり、よく意味がわからないのにどこかの人の言葉を引用したりしていた。そういう不自然な文章では、「意味不明」といわれても仕方なかったのだ。
その後、私は簡単な言葉を使って、自分の伝えたいことをストレートに表現することにした。当然、作文は小学生並みの平易な文章という評価しかつかない。しかし、先生には「このごろ、なにを書いているのかわかるような文章になった」といわれ、少し自信をとりもどすことができた。トップとの差は永遠に開いたままになっても、自分らしい文章がいちばんいいと思った。
日本語での作文は、いつも良い成績で苦労したことはなかった。何かについて理論的に述べよというテーマは苦手だったが、物語を創作するときはすらすら書くことができて、とても楽しかった。
文章を書くのが楽しくなったのは、図書室があったからだ。いまでも、どこかの図書室に一歩足を踏み入れると、あの頃の自分に戻ってしまいそうになる。
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二ヶ国語教育(4)
図書室という場所は落ち着いた雰囲気があって居心地良い。私は、とりわけそこが気に入っていた。
私たちの学校の図書室は三十名ほどが坐れる広さで、蔵書もさほど多くはない。年に一回学校側が新しい本を買い入れるが、卒業生や在校生からの古本の寄付も多かった。
書物は、大きく分けて日本語で書かれているものと中国語で書かれているものとがあって、専門書は少なく文学の方が多かった。
私はよく中国語で書かれた少年少女向けの文学、偉人伝、英雄伝、三国誌、絵入りのギリシャ神話などを借りて読んだ。日本語で書かれた本も同じようなものを借りて、両方を読み比べるのが楽しかった。
おもしろい点は、同じ人物の伝記なのに中国語で書かれている方は、「偉大な人物で我々が手本とすべきもの」と少し見上げてしまいそうになるのに、日本語で書かれている方は「どんな人間でも可能性がひめられている」というようにもっと親しみやすく身近な存在だという印象を受けることだ。
このような体験から、同じ事柄でも人によって国によってまったく違う見方があることを自然に学ぶことができた。 放課後、必ず図書室に立ち寄らないと一日が終わらない。図書室の中は私語厳禁で、宿題をしたり本を読んだりする他はしてはいけないのだが、なぜか私はその「静寂」な空間がたまらなく好きだった。
中学時代、中国語の作文の成績があまりよくなくて、先生に赤線で相当数の行を削除された上、「意味不明」と書かれたりして、がっかりして自信を失いかけていた。
先生には、「とにかく中国語の本をたくさん読むこと」だと言われても、あまり難しい本を読んでも途中で投げ出してしまいそうで、なにか自分に合ったものはないかと図書室に行った。あれこれ捜していたら、小学校高学年用の中国語で書かれたギリシャ神話や昔話などが目に止まった。はじめは、すこしレベルが低すぎるのではと思って読んでいたら、面白くなってとまらなくなり数冊借りて読むことになった。
そうやってつぎからつぎへと読んでいくうちに、「文章は簡単な表現で難しい言葉も使っていないのに、こんなに意味が伝わってくるものなのか」と新しい発見をした。
作文の上手な子は、古人の明言を引用したり、熟語をうまく使って大人顔まけのりっぱな文章を書く。私は、作文というのはそうあるべきものだと思い込んでいた。だから、むりに熟語を入れたり、よく意味がわからないのにどこかの人の言葉を引用したりしていた。そういう不自然な文章では、「意味不明」といわれても仕方なかったのだ。
その後、私は簡単な言葉を使って、自分の伝えたいことをストレートに表現することにした。当然、作文は小学生並みの平易な文章という評価しかつかない。しかし、先生には「このごろ、なにを書いているのかわかるような文章になった」といわれ、少し自信をとりもどすことができた。トップとの差は永遠に開いたままになっても、自分らしい文章がいちばんいいと思った。
日本語での作文は、いつも良い成績でこちらで苦労したことはなかった。何かについて理論的に述べよというテーマは苦手だったが、物語を創作するときはすらすら書くことができて、とても楽しかった。 文章を書くのが楽しくなったのは、図書室があったからだ。いまでも、どこかの図書室に一歩足を踏み入れると、あの頃の自分に戻ってしまいそうになる。
二ヶ国語教育(3)
私たちの学校には、小学部、中学部、高等部とも運動会があるだけで、日本の中学校や高校のように体育祭や文化祭はない。その代わり、国民的な行事などに弁論大会や壁新聞などをつくったり、華僑が主催する式典などに参加することがある。
運動会は、一年のなかでもっとも大きな行事といってもいい。毎年9月23日前後に行われ、生徒も父兄も多数参加するし、卒業生も顔を出すのでその日はとてもにぎやかだ。
私たちは、学年ごとに各種目に各自割り当てられて参加する。そのほか、全員参加のものや男子だけのもの、舞踊など女子だけが参加するものなどに分けられる。 各種短距離競走は、必ずどれかに参加することになっていて、走るのが遅い私はいつもビリという結果が待っていた。個人で参加するのはまだいいほうで「リレー」は気が重かった。私のせいでチームが勝てないからだ。当然、仲間もうすうす感じているからよけいつらい。しかし、病気にならないかぎり勝手に欠席はできないので「あきらめ」てくれていたのではないのだろうか。
同じように、「二人三脚」「三人四脚」なども気が重い。私が相手と知ると喜ぶ人はいないからだ。それでもいったん組んでしまうと、お互い励ましあって放課後毎日練習をしたりするからだんだんとお互いに「仲間意識」が芽生えて、たとえ成績が悪くても、完走すると抱きあって喜んだりすることがあった。
父は、欠かさず写真を撮りに来てくれて、走っていると近くまで寄って撮ってくれた。ビリなのに、心のなかで父に悪いなぁと思っていたが、父は「一生懸命走っていたからいいんだよ」といってくれていた。そういう父のためにすこしでもがんばって練習をして、成績をあげようと努力するがどうしても走るのが早くなれない。
女子だけが参加する中国舞踊があって、毎年先生がみんなを集めて練習をさせる。約1か月間練習が週3日ぐらい放課後2、3時間ある。欠席すると、あとでこわい先生に怒られるのでみんなしぶしぶ参加していた。
「花舞」「剣舞」「国旗舞」「山岳民族の舞」などいろいろとやった。衣装は、各自で指定された色や素材で作るのだが、たいてい親が作っていた。自分で作っていた子もいたが、みんなから「すごいね」とほめられたりしていた。踊りは、中学校1年から高校3年までの女子が一同に集められ、いっしょに踊るときもあればと2つに別れて違うものを踊るときもあった。クラブ活動のほとんどない学校なので、こういう機会がないとなかなか先輩と後輩が顔をあわせること機会があまりない。そういう意味で、こういう先輩がいるのかというようなことがわかるいいチャンスでもあった。もしこういうこともなければ、上下の繋がりのない学校生活になっていたことだろう。
運動会の思い出の中では、踊りのことがいちばん印象深い。練習は、たいへんだったが、当日はきれいなかっこうで踊れてとてもうれしかった。また、中国のこうした踊りを体験させてもらえたことも、ほかでは得られないいい体験になった。
男子は、「騎馬戦」や「跳び箱」などでやはり先輩、後輩とが一緒に練習する。ほかに、さかんにやっていたのはバスケットだけだったので、こういう機会は貴重だったのではないだろうか。
中学を卒業してから、日本の高校に通ったが、毎年運動会には母校に行って、中学からそのまま高等部にあがったかつてのクラスメイトと会っていた。大学にはいり、社会人になってからはあまりいかなくなり、いつのまにか知っている先生も少なくなった。数年前母校にいってみると、校舎も改築されて雰囲気が変わっていた。いまでも毎年運動会は昔のままなのかどうかわからない。
二ヶ国語教育(2)
学校には、横10メートル、縦25メートルのプールがあった。毎年夏休みの後半八月中旬に水泳大会が行われた。 小学部にいたころは、水泳大会には「自由参加」ということだったので、水泳な苦手な私はもっぱら観戦する側にまわっていた。だから、夏休みも遊びでプールに通っていたし、気楽だった。
ところが、中学部にあがったら、「水泳大会には、最低平泳ぎ25メートルを全員参加とする」ということになり、参加しないものは体育の点数が不合格になるということだった。正直言って運動神経がにぶい私には心臓が止まりそうなほどの宣告だった。
夏休みは、毎日プールに通うことになり、必死に練習していたが、基本的な手足の動きはわかるが息つぎなどの細かいことは自分で格闘しながら覚えるしかなかった。うちの両親にしても泳ぎが得意の方ではなかったので教えてもらえる人がいなかった。
クラスには、泳ぎの得意なグループは別として私のように泳げないものもけっこういて、いっしょにプールに日参していたが、やがてひとりふたりと25メートルを達成していくなかで、「ああ、私だけが」という気持ちで焦りだした。
最後まで不安で、水泳大会当日も「途中で息つぎに失敗して、おぼれたらどうしょう」と自分の出番まで気持ちが落ち着かなかったが、決死の覚悟でプールに飛び込んで、なんとか25メートルを泳ぎきれてほっとした。
こうして、つらい一年目がすぎ、二年目は心に余裕がでてきたが、こんどは「平泳ぎ50メートル」が参加条件となった。自由型も練習しなければならなかったが、これは水泳大会には自由参加でよかったので少しは助かった。
またしても、夏休みは毎日プールに通って練習した。とにかく、今度は距離をのばすことが目標なので息つぎができない私はまたしても「おぼれる」恐怖と戦うことになった。
そして、水泳大会の前日びんせんに「短い人生だったが、明日溺れるかもしれないから遺書を書いておく」という内容の遺書を書いて封筒に入れて封をした。
プールに飛び込んで無事に50メートルを泳ぎきり、その遺書の出番はなくなったが、あとにもさきにも遺書を書いてなにかに臨んだのは水泳大会だけだった。
当日参加しないで不合格でも溺れるよりはましだと今ならそう思うのに、ほかのクラスメイトもだれも逃げずに参加するのに自分だけ逃げるわけにはいかなかった。そんなことになる位なら溺れてもいいから「あの子は一生懸命やったのよ」と言われたかった。中学生というのは、そんなものかもしれない。
残念ながら、今はあの苦い夏休みの思い出の舞台だった屋外プールは、もうない。プールのあったところには、新しい建物が建ち、プールは、その中にあるという。
二ヶ国語教育(1)
私が小学2年から中学3年まで通った華僑学校は、駅から歩いて5分のところにあった。とはいえ、小学生のころは、倍はかかったであろう。朝はかならず、土手の道を通って学校に通った。
春は、桜が咲いて花見客がどっとくりだし、下校のころは歩くのがやっとというぐらい人があふれていた。それが終わると、残ったごみの山を横目で見ながら「大人たちはいやだな」と思いながら歩いていた。そういう時期以外は、私たち専用の道という感じがして、とても良い気分だった。
天気のいい日は、美術の時間に土手にみんな出てスケッチをしたのが、一番楽しい一時だ。平日の昼間で人も少なく、女の子はおしゃべりしながら仲の良い友達同士がかたまってのんびりと絵を描いたし、男の子は先生の目をぬすんでその辺の草むらを走り周り、叱られると適当に絵を描いてるふりをし、先生が他の子の方に去ると、すぐにまたもとどおり遊んでいた。彼等はしぶしぶ絵筆をとっていたが、心はそこにはないのだ。 私たち女の子も、なるべく先生のいないところに坐って、女子どうしでお花をつんでたりあしゃべりしたりしていた。しかし、ちゃんとまじめに絵を描いていた女子には、先生も大目に見てくれていた。
夏は、蝉の声がして、木の下を歩くのはとても涼しくて好きだった。夏休みは、ほとんど毎日プールに通って水泳の練習をしなければならなかったし、泳ぎが苦手な私は全員参加の「水泳大会」までに25メートル泳げることができなければ、当日プールでおぼれてしまうのではないかと思っていたのでまじめに毎日土手を往復していた。
秋は、桜の木の落ち葉がとても多くて、足をすべらしそうになるほどだった。雨の日や風の強い日は土手を避けて、道路の向かいにある歩道を通った。
冬も、雨のきつい日や雪の日は土手の道をさけた。それでも、晴れた暖かい日はやはり土手の日だまりを探すようにして歩いた。 何年も通うと、思い出でもたくさんできる。先生に怒られたり、友達とけんかしたりして泣きながら歩いたことや、友達と遊びながら帰ったこと、「なつかしい」という思いはいまもかわらない。
ただ、今その土手も整備され、昔の様子とは大分変わってしまった。それが、すこし寂しい。
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