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私と太極拳(5)

 教室の生徒数が増えるにつれて、当然ながら、やっている年数の応じていくつかのグループに分かれて練習するようになった。
 「まったくの初心者」、「まだ老架一路がすべてマスターしていない者」、「3年以上の者」などだいたい3つぐらいに分かれる。
 いつもは、柔軟体操や簡単な気功などのあと、先生が全員に今日のポイントというかたちで、老架一路の指導がある。毎回ひとつひとつ進むが、一巡するとまたはじめからということになる。はじめての者はもちろん、私のようにもう何年もやっている者でも、そのつど初心にかえり、あらたな発見があったり、フォームの間違いの発見をしたりして飽きることはない。
 それが、終わると一休みしてから、グループごとに分かれて練習をはじめる。先生を手伝ってくれる方がいるので、初心者をみてくれる間先生は、ほかのグループの指導をしたりする。
 私たちは、このころになると「老架一路」「老架二路」「太極刀」を練習していく。
 「老架二路」は、動きがはやくて、はじめなかなかついていけなかった。ひとつでもとまどっていると、たちまちおいていかれてしまうし、回りをみている暇はない。自分の頭のなかに叩き込んでおかないと、なにをしているかわからぬうちに終わってしまうのだ。私の場合、一度目ひととおり習ってから、しばらく間をおいたらだいぶ忘れてしまったので、「今度先生が一から指導してくれるときには、しっかり覚えよう」という意識をもつようにした。おかげで二度目には、ほとんど覚えることができた。ただ、それでも、なかなか速さにはついていけず、気後れしてしまうことが多かった。  しかし、その気後れの気持ちは、毎回みんなで通すうちにすこしずつ消えていき、「二路をやるときは、一路とちがった気持ちに切り替えて元気よくやればいいんだ」とやっとふっきれた。
 「太極刀」は、中国の古典物語でも出てくるし、なんとなくかっこいいとイメージがあり、実際刀をもつと「なにかを切る」という目的意識がもてて、動きやすかった。また、全体としては、同じような動作が多く、速いので練習回数もたくさんできて、覚えやすかった。
 ただ、自宅では、当然「刀」などはないし、また代用の傘やなにかの棒も重さとか感触がちがうので、練習しにくい面はある。
 先生は、一学期(三か月)ごとに「太極刀」または「老架二路」の動作を毎回ひとつずつ指導していった。私たちは、だんだん自分たちだけでも、練習できるようになったので、そのうち毎回この二つをおさらいするようになった。  また、3年ぐらいやっている人や興味のある人は、参加してもいいので、「太極刀」または「老架二路」を練習する者も増えていった。  なんといっても、一時間半のなかで、「老架一路」「老架二路」「太極刀」を練習していくのは、たいへん忙しい。昔のようにのんびりとやっていられなくなったのは、少々残念な気持ちだ。
 この時期、約一年間にわたり、休憩時間に「老架一路」の名称を毎回中国語で復唱することを試みた。私の提案でやらせていただいたが、これは私自身すでに何年もやっていて、まだ名称すらわからないという動作が多く、これではいけないと思ったからだ。
 確かに動作を正確に覚えて、しっかりと練習することがいちばん大切である。しかし、自分がやっているのが「なんという動作」かもわからずでは寂しい。ひとつひとつの名称を覚え、意味を知り、その上で先生の細かい指導を受けて、はじめて「意識」をもってなにかをするということが完結するのではないのか。
 先生も、ときどき動作の実際の「攻防」について指導してくださるが、さてその動作はなんというのか。いってみれば、顔は知っているが名前はしらない同志の間柄みたいなものだ。
 他のものと比べ「老架一路」は、べースとなっているものなので、せめてこれだけは名称を復唱しながら、完璧に覚えられなくても、あとで聞けば思い出せるという程度になればいいと思ったのだ。  この試みは、ほぼ成功して、名称を聞けばなんとかわかるようにはなった人は結構いたのではないかと思っている。

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